国宝
三宝院 表書院
桃山時代 慶長3年(1598)
上段十五畳(床及び棚付)
十八畳
次の間二十七畳
四面入側
泉殿
車寄より成る
一重
入母屋造
泉殿切妻造
桟瓦葺
西面車寄唐破風造
軒:面取法柱、舟肘木、疎垂木、小舞裏
舞良戸
檜皮葺
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庭と絵の 綾なす極み 国宝の座
三宝院は、平安時代に勝覚が開いた、歴代の醍醐寺座主が居住した格式高い本坊です。
応仁の乱によって一時焼失しましたが、慶長3年(1598)、豊臣秀吉が「醍醐の花見」の際に自ら再建を指揮し、現在の建物群の多くが整えられました。


三宝院の中心を成す表書院は、庭園に面した堂々たる建物で、泉殿や唐破風の車寄せを備えています。
内部は上段・中段・下段の三室からなり、下段の間は、別名「揚舞台の間」とも呼ばれ、畳の下には鏡板が張られており、能や狂言が演じられる舞台構成となっています。




上段には、四季の柳、中段には、山の風景が描かれ、いずれも長谷川等伯の門下の絵師による制作とされます。


下段に描かれた孔雀と蘇鉄は、石田幽汀によるもので、華やかさを抑え、整った構成と穏やかな色調が品位をたたえています。


建築と絵画が融合した桃山時代の書院造の真髄を今に伝える名建築です

長谷川等伯
桃山・江戸初期を代表する絵師。長谷川派の創始者。独自の水墨・金碧装飾画の境地を切り拓く。代表作である国宝「松林図屏風」は日本水墨画の最高峰として知られる。1539–1610。
書院造
平安時代の貴族社会で生まれた寝殿造が社会の変化と共に発展し、鎌倉時代以降になると実権を握った武士の生活スタイル、ことに接客儀礼の必要性に対応し、また中国から伝来された禅宗建築の影響もあり、徐々に武家社会の邸宅として独自の様式を備えてきたものである。
石田幽汀
江戸中期の京都の絵師。円山応挙の師。狩野派を学び、南蘋派や大和絵の要素を取り入れ、華麗で写実性のある花鳥画や人物画を描いた。1721-1786。
孔雀と蘇鉄

山の風景

四季の柳

鏡板
畳の下に敷かれる平らな板材で、床構造の一部をなす建築部材。

上段・中段・下段
車寄せ
玄関前に設けられた屋根付きの張り出し部分で、来客が車から安全かつ快適に乗降できるようにした空間。平安時代以降、貴族邸宅や寺院において発達した。

泉殿
平安・鎌倉時代の寝殿造に見られた、泉のある庭に突出して建てられた納涼や景観鑑賞のための建物。

表書院
家の表向きにある書院。
醍醐の花見
慶長3年(1598)、豊臣秀吉が京都・醍醐寺で催した壮麗な花見の宴。家族や家臣、公家ら1300人以上を招待した。
秀吉はこのために、醍醐寺三宝院の庭園整備を命じ、700本以上の桜を移植、さらに女性たちには華やかな衣装替えを3度もさせたと伝わる。
これは政治的権威と文化の粋を示す儀式であり、桃山文化を代表する象徴的な行事である。
豊臣秀吉
安土桃山時代の武将。はじめ織田信長に仕え、天正10年(1582)の本能寺の変により信長が亡くなると、いち早く後継者として名乗りを上げ、敵対勢力を破り天下を統一した。天正11年(1583)からは覇者にふさわしい五層八重の天守閣をもつ大阪城の建築に着手した。豊太閤と呼ばれた彼の時代は、茶の湯や狩野派の絵画に代表される豪華絢爛な桃山文化が開花した。
三井寺との関係は、おおむね良好であったが、晩年を迎えた文禄4年(1595)、突如として三井寺に闕所令を下した。三井寺は、慶長3年(1598)8月の彼の死後、秀吉の正妻・北政所のもとで再興されることになる。

本坊
寺院内における住職や座主など高位僧の住居・政務の場として設けられる建物またはその部屋。
座主
日本の仏教寺院における高位の僧職またはその寺院の最高指導者の称号。特に天台宗や真言宗、華厳宗などにおいて重要な意味を持つ。
勝覚
平安時代後期の真言宗の僧。醍醐寺第14世座主。永久3年(1115)に三宝院(当初は灌頂院)を創建。東寺長者や東大寺別当を歴任し、仏教界内で大きな影響力を持った。1057–1129。

平安時代
桓武天皇の平安遷都(794)から鎌倉幕府の成立(1185)まで約400年の間、政権の中心が平安京(京都)にあった時代。ふつう初・中・後の3期、すなわち律令制再興期・摂関期・院政期(末期は平氏政権期)に分ける。平安朝時代。
桃山時代
織田信長・豊臣秀吉による天下統一期。伏見桃山城にちなんで名付けられ、検地・刀狩などで支配体制が整備された。1573〜1603。
唐破風
中央が高く、左右になだらかに流れる曲線をもつ独特の屋根。

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